NHKマイルカップでサドンストームが勝ったら好きな子に告白する
「告白ってね、その時点で負けなんよ」
まるで諭すように、ゆっくりとそう口にした。
その日、府中の街は激しい雨に濡れていた。大粒の水滴がアスファルトを叩き、吹き荒れる風が木々を揺らしていた。それはまるでこれから起こりうる”何か”を暗示するものだった。
東京都にある府中とは不思議な街だ。東京都の西、多摩地域に位置し、人口は26万人、東京23区、八王子市、町田市に続く4番目の人口だ。
「混乱を招く恐れがあるので同じ市名は望ましくない」と総務省によって定められているが、この市は広島県の府中市と同じ名称を持っている。
この府中市の南、多摩川からほど近い場所に「東京競馬場」が存在する。国内最多、8つのGIレースが開催される中央競馬の中心的な競馬場だ。
東京競馬場の周辺は道路が整備され、樹木が植えられ、駅からの専用通路まで備えられており、その光景は整然とした未来都市といった印象だ。競馬からは程遠い。
そんな場所がひとたび競馬の開催日となると、一変する。駅から続く専用通路はグレーと茶色の色合いの競馬ファンで敷き詰められ、黙々と蠢くようにその塊が進んでいき、独特の雰囲気を醸し出す。さながらレミングの死の行列といったところだろうか。あきらかに普段と違う異様な雰囲気が府中の街を包む。
府中の街の至る場所にはJRA(中央競馬会)が配置した警備員が置かれる。え、こんな場所にもいるの? と言ってしまいたくなるほど東京競馬場からかけ離れた場所にも立っているのでいつも面食らってしまう。競馬開催によって地域に迷惑をかけないというJRAの心意気みたいなものを感じるが、やはり異様な光景だ。
5月第1週、NHKマイルカップが開催されるこの日は、東京競馬場にとって特別な日だ。
NHKマイルカップ
ビクトリアマイル
優駿牝馬(オークス)
東京優駿(ダービー)
安田記念
春から夏にかけての競馬を盛り上げる5つのレースが5週連続、東京競馬場で開催されるのだ。5週の間、ずっと東京競馬場においてビッグレースが開催される。
JRAが開催するGIレースは26あるが、それが開催される競馬場はそう多くない。東京競馬場、中山競馬場、阪神競馬場、京都競馬場、中京競馬場、この5つである。そのほかの競馬場では基本的に開催されない。
以前、中山競馬場の改修工事のため新潟競馬場にてGIスプリンターズステークスが開催されたことがあったが、新潟にやってきたGIレースと新潟が大熱狂に包まれて大騒ぎになってしまったらしい。それくらいGIレースがやってくるという事実はファンにとって重い。
そんな重いGIレースが5週連続で開催されるというのだから、東京競馬場がどれだけ狂っているのか伺えると思う。その狂気の5週連続GI、その先陣を切るのがNHKマイルカップだ。
3歳マイル王決定戦。1600メートルの距離を駆け抜ける3歳の若駒たち、それを包む歓声が祭りのはじまりだ。東京競馬場GI祭り、これから5週にわたって東京競馬場での祭りが始まる。常連たちもにわかに活気づく。
2012年、5月。このNHKマイルカップを迎えた僕も胸を高鳴らせていた。5週連続GIという事実に胸がはちきれんばかりだった。
僕の大本命はマウントシャスタという馬だった。毎日杯で2着に入り気合も十分、1800メートルの毎日杯より短くなるNHKマイルカップの舞台は絶好のチャンスだと思っていた。
当時はちょっと頑張れば自転車で東京競馬場に行ける距離に住んでいたので、その日も自転車で東京競馬場へと向かった。ただ、その日は嵐のような雨だった。
家を出た時にはやや小雨で、これならいけると自転車に乗ったが、すぐに激しい雨が打ち付け、突然の嵐となり、のっぴきならない状態になった。こりゃたまらんと途中のパチンコ屋に雨宿りがてら立ち寄ることにした。
このパチンコ屋は競馬の街、府中に特化した作りになっていた。店に入ってすぐの場所に休憩所みたいな場所があり、そこに置かれたテレビで延々と競馬中継を流していた。
そこには競馬に夢中な人々が押し掛けており、パチンコをしたいんだか競馬をしたいんだか分からない状態になっていた。
パチンコに興じ、レースの度にここにきて観戦、終わるとまたパチンコに戻る、そんな人々で溢れていた。恋に仕事に大忙しといったフィーリングで、競馬にパチンコに大忙し、そんな人々で溢れていた。
「いやー、今日のNKHマイルカップから5週連続GIじゃん」
「テンション上がっちゃっていてもたってもいられなくて府中に来たんだけど」
「パチンコに来ちゃうんだよな」
「なんでかなー」
若者二人がそんな会話をしていた。ここが府中の不思議なところなのだけど、こういった人がけっこうな頻度で存在する。
競馬を目指して府中にたどり着くのに、東京競馬場に着く前にパチンコ屋に吸い込まれてしまうのだ。
「カレンブラックヒルですか?」
うわー濡れちゃったよ、とジャンパーを脱いでいると若者の一人が話しかけてきた。
ここも不思議なところなのだけど、普通、パチンコ屋の休憩所で一緒になった人に無闇に話しかけたりはしない。それなのに、そこに競馬中継が導入されるだけで活発に話しかけるようになるのだ。
本命の予想を聞く、それは釣り人に「釣れてますか?」と訊ねる感覚に近い。
「いやー、マウントシャスタ大本命ですわ」
そう答える。なぜマウントシャスタ鉄板なのか、その理論を延々と語ろうと思ったけどよく知らない人なのでやめておいた。
「僕はジャスタウェイ本命なんですよ」
若者はそう言ってニッコリ笑った。
「へえー、そうなんですか」
あまり反応すると「なぜジャスタウェイ本命なのか」の理論を延々と話されそうなので適当に受け流しておいた。
「それでね、聞いてくださいよ、こいつ、何が本命だと思います?」
若者がそう言って話を振るとその横にいた友人が「おいやめろよ」みたいなジェスチャーを見せた後、観念したように話し出した。
「サドンストームです」
驚いた。
サドンストームは決して悪い馬ではないが典型的なスプリンターだ。おそらくマイルの距離は少し持て余す、そう考えていた。
「ちょっと厳しくないですか? マイルは長いでしょ」
そう指摘すると彼は首を横に振った。これは延々となぜサドンストームが鉄板なのかと理論を語られるやつだ、と身構えた。
「ほら、今日のこの天気、これは突然の嵐でしょ、だからサドンストーム(突然の嵐)なんですよ」
彼は自信満々にそう言った。
信じられないかもしれないが、競馬の世界にはこういう人が結構いる。特に予想をするでもなく、馬名や馬番を世相に関連付けて購入する手法だ。いわゆるサイン馬券というやつだ。
はるか昔、天皇賞・春で京都の空が青く晴天だったからセイウンスカイで鉄板だ、と言っていたおっさんを思い出した。
このサイン馬券は究極の結果論としてしばし話のネタに上がる。アメリカ同時多発テロのあった年の有馬記念はマンハッタンカフェとアメリカンボスと、いずれも事件に関係ありそうな馬名の1・2フィニッシュで決まった。
最近では、田代まさしが逮捕された年の有馬記念は1番がかならず連対(1着か2着になる)するなんてものもあった。多くの場合が後から考えて関連があった! と悪戯に騒ぐものだった。
彼はそのサイン馬券的な考え方で今日の天気が突然の嵐だからサドンストームがくると言い切ったのだ。
「そうですか、サイン馬券ですか」
競馬の楽しみ方は人それぞれだが、僕はこのサイン馬券的な予想には否定的だ。サイン馬券はあくまでも結果論として楽しむべきで、予想の柱にするべきではない。サイン馬券に頼った時点でたとえ当たったとしても、競馬予想としては負けなのである。
「それにね、こいつ、サドンストームが勝ったら、同じゼミの子に告白するって決めてるんですよ」
「おいやめろよ!」
サイン馬券の彼は、サドンストームに自らの恋心も預けているようだった。僕はこの考えにも否定的だ。競馬と恋路を重ね合わせるべきではない。例えば、セイウンスカイが逃げ切れば、離れつつある彼女の心も戻ってくるんじゃないか、そんな風に考えてはだめなのだ。その時点ですでに負けているのだ。
「へえ、告白ですか」
僕はこの「告白」に関しては確固たる持論を持っている。彼がサイン馬券を買うことも、競馬に恋愛を重ねることも見過ごせたが、この「告白」だけはとても捨て置けないので指摘することにした。
「告白ってね、その時点で負けなんよ」
大人は告白なんてしない。伝説の桜の樹の下で好きですなんて伝えたりはしないのだ。聞くに、サイン馬券の彼は、同じゼミというだけでそれ以外にはほとんど接点もなく、話もしたことない子に告白するらしい。
一か八かで告白し、起死回生のオッケーをもらってやったー!なんてのは漫画の中のお話か、もっと若い、小学生、中学生、高校生のお話だ。大人はそんなことはなしない。
大人になればなるほど、人と人の関係は希薄になる。そんな希薄な関係のなかで突如として告白されても人は戸惑うだけだ。だから大人は告白をしない。やるべきことは告白ではなく、距離を詰めること、知ってもらうことなのだ。そこから始めずにいきなり告白するからおかしなことになるのだ。
「だからね、やるべきことは告白じゃないよ。そんなことをサドンストームに背負わせちゃいかん。もっと彼女との距離を詰めることからはじめないと」
そうアドバイスする。年の功といったところだろうか。しかし、彼は首を横に振った。
「いいえ、いいんです。僕は告白がしたいんです。だから絶対にサドンストームに勝ってもらうんです」
彼はまっすぐとした瞳でそう言い切ったのだ。
なるほど、彼は彼女とどうこうなりたいのではないのだ。告白がしたいのだ。自分の気持ちにケリをつけたいのだ。傷つきたいのだ。
ものにしたいとかそういうお話ではない。そのまっすぐな気持ちを思うと「もっと距離を詰めて、いつの間にか私たち付き合ってる?みたいにしたほうがいい」みたいな思想の僕自身が急にヘドロのごとき汚らしさに思えた。単に傷つくことを畏れている、それを大人と言い換えているだけなのだ。
「そうか、うん、サドンストームくるといいな。それでもマウントシャスタが勝つと思うけど」
「スタートで出遅れなければ絶対にサドンストームの勝ちですよ!」
休憩室の喧騒が色濃くなってきた。いよいよNHKマイルカップが始まるらしい。雨はいっそう激しさを増していた。もう今から競馬場に向かっても間に合わない。大本命マウントシャスタの馬券はネット投票で購入したので問題ない。もうここで観戦するしかない。
「出遅れなければサドンストームの勝ち!」
休憩室には彼の声がひときわ響いた。
いよいよ、NHKマイルカップが始まる。東京競馬場にあのGIファンファーレが響き渡った。
サドンストーム、おもいっきり出遅れた。
「サドンストーム出遅れました」
無慈悲な解説が響き渡る。
怒号と歓声、悲鳴が休憩室に響き渡る。
レースは前評判通りカレンブラックヒルが圧倒的な強さの逃げ切りを披露し制した。出遅れて精彩を欠いたサドンストームは13着だった。
うなだれる若者に話しかける。
「不思議だよな、競馬って負けるたびに”もうやめる”って思うんだけど、次の週も東京競馬場でGIだと思うと府中に来てしまう。不思議だよなあ、府中って」
「俺はさ、告白にも、サイン馬券にも競馬と恋路を重ね合わせることも否定的なんだけどさ、不思議なものでさ、今週負けても来週も告白を賭けてやればいいじゃんって思っちゃうんだよね。競馬ってそういうもんじゃん」
ふと、休憩室に貼られたポスターのCR海物語のクジラが目に留まった。
「クジラが見てる。だからさ、来週のヴィクトリアマイルはクジラのサイン馬券でホエールキャプチャだって。それでまた告白を賭けてやればいいよ」
「はい!」
若者は元気にまっすぐ返事した。
「ホエールキャプチャ、勝つといいな」
店を出る。まだ雨は降っていた。突然の嵐は終わり、穏やかな雨が続いていた。
「大人は告白なんかしない、か。間違ってたな。時には大人でもケリをつけないといけないんだ。自分に」
雨に濡れた自転車がキイキイと音を立てて坂道を登って行った。
「おつかれさまです!」
こんな場所にも立っているのかよと言いたくなる場所に佇むJRAの警備員さんに話しかける。
「来週も頑張ってくださいね」
警備員さんは笑顔でそう言った。
府中とは不思議な街だ。辞めると決意してももまた来てしまう。競馬場まで行かなくても、なんだか競馬を満喫した気分にさせてくれる、そんな場所なのだ。
ちなみに僕の大本命、大金を投じたマウントシャスタは他馬の進路を妨害し、失格だった。鞍上の岩田康誠騎手は4日間の騎乗停止処分。
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