セイウンスカイが逃げ切れたなら彼女の気持ちも戻ってくる、そう信じていた

1999年天皇賞・春
pato 2023.06.07
誰でも

あの日の京都の空も、青かったように思う。

1999年、春。京都にいた。

当時は広島と京都で遠距離恋愛をしていて、ゴールデンウィークを利用して彼女に会うため、初めて京都まで行った。いや、正式には大阪に行ったのだった。

新幹線に乗ってクルクル変わる景色を眺めながら移動し、降り立った新大阪駅で彼女と落ち合った。田舎者だった僕は新大阪駅の大都会ぶりにとにかく驚いたものだ。

とりあえず、そこから梅田に移動し、適当に散策することになった。久しぶりに会った彼女は、なんだか少し大人びていてちょっとだけ髪が短くなっていて、こんな感じだったけと少しながら戸惑った。

「ちょっとお茶でも飲もうよ」

彼女はふいっとその辺にあったカフェに、何の躊躇もなく入り込み、流暢な横文字で注文して見せた。地元の田舎町にあるセブンイレブンの偽物と思われる「セブン」という夜9時には閉店する怪しげな似非コンビニ、その軒先に置かれた色褪せたコカ・コーラのベンチで嬉しそうにプッチンプリンを食べていた彼女、その姿と今の彼女が繋がらなかった。

「でね、その横井先輩がすごく面白くてね」

彼女は目をキラキラさせ、ひょうきんで知られる大学の先輩のエピソードを披露し、横文字の飲み物が入ったグラスを口元に運んだ。そこで初めて、リップの色が変わってることに気が付いた。

「サークルの飲み会でね、横井先輩が川に飛び込んだの、もう、おかしくておかしくて。あんな面白い人いないよ」

「古本屋にいったら偶然に横井先輩に会ってさ」

「サークル合宿で夜通しトランプしてた。横井先輩が弱いの」

彼女の口から出てくる京都での大学生活は、まるで小説の舞台のような世界観であり、そして横井先輩で満たされていた。

「なんか元気ないね?」

「あ、もしかして妬いてる? 大丈夫だよ、横井先輩は私に彼氏いること知ってるし、横井先輩も地元に彼女いるし」

「でもね、横井先輩ってけっこう頼りになるところもあって、ふざけてるだけじゃないんだよね」

「すっごいおしゃれな店とか知ってるし」

僕は何を飲んだのか覚えていないが、その何かを半分残したことだけはよく覚えている。

ひととおり梅田を散策した後、淀屋橋まで移動し、そこから京阪電車に乗って彼女のアパートがある京都へと向かった。JR以外の電車が選択肢にあり、ひょいひょいと乗れる彼女が完全に都会の人間だと思えた。

「それでね、横井先輩がさ、野球観戦に連れて行ってくれて、歓声とかすっごいの、感動しちゃった」

彼女は車内でも“自分の知らなかった世界を見せてくれる横井先輩”みたいなエピソードを披露してみせた。僕は戸惑っていたのか、それとも嫉妬していてのか、よく分からないけれども、彼女の話をあまり聞かず、ただただ車内の様子を観察していた。

「妙におっさんが多いな」

車内は競馬新聞を持ったおっさんで満たされていた。これ競馬に行く連中だ。

当時の僕は、競馬といえばダビスタぐらいの知識しかなく、執拗にクリスタルカップに登録してくる調教師にぶちぎれるくらいのもので、あまり知識はなかった。

それでもなんとなく覚えている。ちょうどこれくらいのゴールデンウィークの時期、京都競馬場で大きなレースがあるはずだ。もしかして、今日、はそのレースの日じゃないだろうか。

競馬新聞を読みながらなぜかブツブツと怒っているおっさんが持つ紙面の裏を覗くと、大きな文字で「セイウンスカイ」と書かれていた。その横には「天皇賞・春」と書かれている。やはりそうだ。天皇賞(春)があるのだ。

天皇賞とは、グレードが高いレース区分であるGIレースのひとつだが、実は春と秋、年に2回開催される。特に春に開催される天皇賞(春)は特殊で、3200mというとんでもない長丁場の長距離戦として行われる。もちろん、国内での平地芝GIで最長の距離だ。

長距離を得意とする馬が活躍する場はそう多くない。3000mを超える平地GIはこの天皇賞(春)と菊花賞(3000m)だけだ。菊花賞は3歳時しか出走できないので、古馬が活躍できる長距離戦となると、もはやこれしか選択肢がないのである。そういった意味で「伝統の一戦」「頂上決戦」「最強決定戦」などと煽り文句が入れられ、本当に強い馬を決める、みたいに考えられることもある。天皇賞(春)とはそんなレースだ。

その天皇賞(春)が今日、開催される。

「淀で降りよう」

車内の路線図を見ると、京都競馬場に行くには「淀」という駅で降りる必要があるらしい。まるで津波のように競馬新聞をもったおっさんたちが蠢くなか、戸惑う彼女の手を引いて「淀」に降り立った。

彼女の知らない世界を見せなければいけないと思った。それが競馬だった。幸い、競馬の知識はダビスタで培っている。クリスタルカップも知っている。

初めての競馬場だけどなんとかエスコートできるはずだ。絶対に彼女の知らない世界を見せなければならないと思った。

京都競馬場に到着すると、いきなり試練が訪れた。入り口付近にはドッカンドッカン煙草をふかしているおっさんが阿吽の門番のように仁王立ちしており、その異様な迫力に彼女が怖気づいてしまった。というか僕も怖気づいてしまった。こんな世界、僕も知らない。

「ねえ、帰ろうよ、なんか怖いよ」

「大丈夫、大丈夫、慣れたもんよ。噛みつきゃしないよ」

そんなことを言って余裕ぶった。本当はめちゃくちゃ怖気づいているのに、そう言うしかなかった。横井なる男に負けてはいけない。新しい世界を知っていて、ひょうきんで、それでいて頼りになる男でなくてはならない、そう思ったのだ。

「にいちゃん、タバコあるか?」

門番のおっさんは噛みついてきそうな勢いでいきなり話かけてきた。通過する人間にそう聞いてタバコを仕入れているようだ。

「あ、はい、あります」

ビクビクしながらタバコを1本、差し出す。

「ありがとな。お礼にいいこと教えたるわ、今日はセイウンスカイや、ぜったいや」

「え、ほんとですか?」

絶対にセイウンスカイが来るというのだ。半信半疑な僕に向かって、おっさんはちょいちょいと空を指さして見せた。そこにはよく晴れた高い空があった。

「きれいな空ですね」

「セイウンスカイや」

おっさんはそう言ってにっこり笑った。

空はともかく、おっさんの見立てはそう間違いではなかった。この年の天皇賞(春)は三強対決と言われていた。スペシャルウィークとメジロブライト、そしてセイウンスカイだ。

前述したように3000mを超える長距離GIはこの天皇賞(春)と菊花賞しかない。自然と前年の菊花賞の結果が参考にされ、前年の菊花賞馬VS古馬という図式になることが多い。

そういった意味で、前年の菊花賞馬であるセイウンスカイへの注目は高かった。レコード勝ち(レースレコード、当時の3000m世界レコード)なのはもちろんのこと、圧巻だったのはその勝ち方だ。

もともと菊花賞というレースは「逃げ」の戦法に向いていないとされていた。最初から先頭に立ち、そのまま押し切ってしまうことが難しいのだ。

けれども、セイウンスカイは逃げた。そしてジンクスを打ち破り菊花賞で逃げ勝ったのだ。

前評判が高く、単勝1.5倍と圧倒的に支持されたスペシャルウィークをねじ伏せたことも驚きの材料だった。

菊花賞は逃げ勝てない。そんな定説を跳ねのけたのだ。

菊花賞で2着となりダービー馬でもあるスペシャルウィーク、そして前年の天皇賞(春)の覇者であるメジロブライト、そしてセイウンスカイ、この年の天皇賞(春)はこの3頭の激突に注目が集まった。

「俺はスペシャルウィークだと思うわ。だっていまはゴールデンウィークだろ。もう決まりだろ」

通りすがりに、阪神タイガースの帽子をかぶったおっさんの話が聞こえた。ゴールデンウィークとスペシャルウィークの繋がりがちょっとよくわからなかった。何が決まりなのか。

「メジロブライトだな、先祖が夢の中に出てきてそう言ってた」

そんなことを熱弁しているおっさんもいた。

僕は霊という立場もけっこう大変だと思っている。夢枕に立つといってもそうそうホイホイたてるものじゃないと思うのだ。エネルギーとか霊力とか、もしかしたら霊界の通貨みたいなものも必要かもしれない。煩雑な手続きが必要なのかもしれない。だから先祖はなかなか夢枕に立たない。そう簡単に立てない事情がある。

そんな思いをしてやっと立った夢枕で天皇賞の予想を教えてくれるのだ。ちょっとありえない。もうちょい有意義なこと言うだろ。

はじめての競馬場に大興奮の僕をよそに、やはり彼女は退屈そうだった。それでも僕は、レースさえ始まれば彼女だって大興奮するはず、来てよかったって思ってくれるはず、新しい世界、と叫ぶかもしれないと思っていた。

「セイウンスカイは3200mでも逃げ切れるのか」

話題の焦点はやはりそれだった。難しいとされる菊花賞を圧倒的レコードで逃げ勝った。そのセイウンスカイが天皇賞でも逃げ切れるのか。距離は伸びる。同年代だけが相手だった菊花賞と異なり、古馬も加わり相手が強くなる。本当にセイウンスカイは逃げ切れるのか。

逃げ勝って欲しいと思った。

なんだか、セイウンスカイが逃げ切れたならば、僕自身も逃げ切れるような気がしたのだ。何からだろうか。いったい僕になにが迫ってきているのだろうか。おそらく何かが迫ってきている。僕は逃げ勝たねばならなかった。その思いをセイウンスカイに重ねた。

「なんかつまんないし帰ろうよ」

彼女はそう言った。僕はその言葉を無視し、ターフをじっと見つめた。

場内の喧騒が、どよめきに変わり、そして歓声へと変化していった。バラバラだった数万の観衆の興味が一点に引き寄せられる。いよいよ、レースが始まる。ファンファーレとともに観衆が津波のように蠢いた。

「セイウンスカイ、逃げてくれ!」

祈りのような僕の言葉は、地鳴りのような歓声にかき消された。そしてついにレースが始まった。

セイウンスカイは逃げ切れなかった。いいや、その言葉には間違いがある。セイウンスカイはそもそも逃げることすらできなかった。

レースが始まり、先頭をとることはできなかった。レース中盤になってやっと先頭に躍り出るが、それはもう、華麗な逃げとは違うものだった。ただ「先頭にたった」というだけのものだった。そして、最終直線ではすでに力尽きており、ジリ貧の展開となった。スペシャルウィークとメジロブライトにぐいぐいと離されていく。

結果は3着だった。惨敗だ。いや、あの展開で3着に残したのはさすがといったところだろう。

「そういうことか」

そもそも逃げ切れるかどうかじゃなかったのだ。逃げの態勢にすらなっていなかった。なんだかそれは妙に納得いくものだった。

「今日は帰るわ、まだ新幹線あるし」

そう彼女に告げて京都競馬場をあとにする。見上げた空は驚くくらいに青かった。

2023年の天皇賞・春は、長きに渡った改修工事が終わり、3年ぶりに京都競馬場に戻って開催された。

天候はあいにくの曇空。稍重の発表だった。青空は見られなかったが、いつまでもいつまでも、僕の心の中で京都の空は青く高い。逃げられなかったセイウンスカイと僕はいまだにその空を見上げているのだ。

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