母を亡くした時、僕は布団を丸洗いしにコインランドリーにいった
24歳のときに母を亡くした。
当時、僕は大学院生だった。下宿していた家賃3万円のアパートでその報せを聞いたはずだった。たしか電話がかかってきたんだと思う。あやふやな表現をしているのは、正直に言うとあまり記憶がないからだ。
いまだに何をどう行ったのかその行程が全く記憶にない。ただカーラジオからaikoがかかっていたことだけは薄っすらと覚えているので、たぶん車を運転して帰ったんだと思う。そして母の遺体と対面した。
クルクルと洗濯物が回る光景を眺める。コインランドリーだ。そこには言葉のない世界があった。静寂の中で、もう遠い昔となったその時のことに思いを巡らせる。いつもここにくると思い出す。それには少しだけ理由があった。
乾燥機が回っていた。
コインランドリーの乾燥機はなかなかにパワフルなので、おもいっきり乾燥したいときや、急いで乾燥したいとき、もしくは大物を乾燥させたいときなど、様々な場面で近所のコインランドリーを利用することがある。
そのコインランドリーは総合病院の裏手にあり、場所柄か入院患者の付き添いの人が多く利用していた。泊りがけの付き添いで溜まった汚れ物などを洗濯しに来る人が多かったように思う。そういった人は病院の裏手から伸びる近道的な路地を抜けてくるのですぐに付き添いの人だとわかった。
ここに来る人は様々だ。あっけらかんとして旦那の症状を説明し合うおばさん連中もいれば、なかなか沈痛な感じの女性もいる。妻が入院したのか慣れない感じで洗濯物を放り込むおじさんもいる。たぶん病院にもあるのだろうけど、混雑している時などはこっちに来ていたのだと思う。
その日も、乾燥機をぶん回して終わるまでの間、誰かが忘れていったであろう「はじめの一歩」のコンビニ本を読みふけっていた。ちょうどヴォルグ・ザンギエフ戦のあたりだ。熱中して読んでいると、ガーっと自動ドアが開く音がした。視線をそちらに移す。
見ると、おじさんが立っていた。
おじさんは布団を担いで立っていた。1組の布団、つまり敷布団と掛布団を担いでいた。ちょっとした日本の伝統的何かみたいな仰々しい絵柄模様に、あずき色のやや派手な布団だ。おじさんは恐ろしいほどに無表情で、テーブルの上にどさっと布団を置くと、壁に貼られた注意書きを読み始めた。「花粉症の季節こそコインランドリー」とか、ちょっとよく分からないやつだ。
特に読む必要もないものばかり掲示されているが、おじさんはそれを熟読しながらグズグズと泣き始めた。
今思えば明らかに異様な光景だが、その時の僕にとってはあまりそう感じるものではなかった。おそらく、多くの人にとっては異様な光景に映るだろう。怪しいおっさんがやや派手な布団を担いできて泣き始める。けれども、僕にはその気持ちがなんだかわかる気がするのだ。
読みかけの「はじめの一歩」を椅子に置き、すっと立ち上がった。右手にある乾燥機はゴウゴウと音を立てて洗濯物をかき混ぜていた。もう一度、母が亡くなった時のことを思い出した。
母の通夜や葬儀は滞りなく終わった。いや、滞りがないと言ったら正確ではない。滞りはあった。確かにあった。
当時、僕の住んでいた地域は、隣近所で協力して葬式をやるという風習があった。近所中の女性が集められて葬式のある家の台所で料理をする。近所中の男が集められて葬式の運営をする。そっちが先に死んでもおかしくない感じの重鎮とかまで出てくる始末。死にかこつけて近隣住民の絆を確認する行事、そういった側面が確かにあった。
けれども、父は何をトチ狂ったのかそれらの近隣住民の協力を一切断った。地域の絆、その全てを断り、市内にできたばかりの葬祭ホールを利用して葬儀を執り行ったのだ。
葬祭ホールでの葬儀はすごいものだった。なにからなにまでホールスタッフがやってくれるので、本当に今までの葬儀は何だったのだろう、葬式ってこういうものなんだと、という感じに目から鱗が何枚も剥げ落ちるのを感じた。
地域の住民はほとんど訪れず、親戚や知人などからお悔やみの言葉をたくさんいただいた。ただ、僕はそれらの言葉が全く心に入ってこなかった。ある意味、拒否していると思えるほどに、自分の中に入ってはこなかかった。
地域のしきたりを破り葬祭ホールで葬儀を行った重罪人。我が家の評価はそう定まった。重鎮とかからは「あんな商売しか考えていない葬祭ホールで勝手に葬儀をやるなんて、地域の絆がめちゃくちゃになる」と叩かれることになり、瞬く間に村八分みたいな状態になったが、まあ、父はそんなに気にしていない様子だった。
通夜も葬儀も、そういった意味では滞りがあったが、僕から見たら滞りなく進行し、あっという間に終わった。何もなさ過ぎて拍子抜けするくらいだった。母を亡くしたのだからもっと悲しく、泣き叫び、絶望するかと思ったが、そうではなかった。感覚的には、職場の朝礼でよくわからない偉い人の話を聞いているくらいの立ち位置、なかば義務みたいな感じでぼんやりと通夜や葬儀を眺めていた。
「こんなものか」
あまり感情が動かない自分を非情な奴だと思った。ただ、それとは別に僕の中で確固たる信念のように生じた感情があった。
「ちゃんとやっていける」
僕らは母を亡くしてもちゃんとやっていける。それを見せなければならないという気持ちがあったのだ。だれに見せる必要なのだろうか。
天国の母に?
そんなことはない。残念ながらそんなセンチメンタルな感情をおそらくは持ち合わせてはいない。きっと、周りの人間に見せる必要があったのだ。親戚や近隣住民にだ。
遺されたのは僕と父と弟だ。いずれも真っ当に生きていける人間とは思えない。見えない場所で母が支えてくれたからなんとか生きてこられたような人間ばかりだ。クズのラインナップといっても良い。
あの家、クズばかり残ったけどどうなっちゃうんだろう、誰も口にしなかったが周囲の人はみんなそう思っていたはずだ。
僕たちはちゃんと生きていける。それを見せる。それは意地みたいなものだったのかもしれない。
「母がいなくても生きていけるんだ。僕がそれを見せないといけない」
そう考えた僕は、なぜか「布団を丸洗いしにいく」ことにした。このあたりは今では全く持って理解に苦しむが、僕の中で布団を洗うことはちゃんと生活していることの代名詞のような感覚があったのだ。だから、母を亡くして途方に暮れている僕たちは、布団を丸洗いしなくてはならなかった。絶対にそうしなくてはならなかった。早い話、布団さえ丸洗いにできたらちゃんと生きていけると思った。そんな節すらあった。
だから、葬儀後の様々な手続きをほっぽり出して布団を洗いにいった。
小さな田舎町だったが、葬祭ホールができたのと時を同じにして、繁華街の中心にコインランドリーができていた。すぐさま一組の布団、つまり敷布団と掛布団を担ぎ、コインランドリーに向かった。
当たり前だが、コインランドリーには大きな洗濯機が並んでいた。そこに布団をぶち込み、コインを入れた。すぐにグワッグワッと何かを確かめるようにドラムが動き、軽快に水が注入される音が聞こえた。簡単なものだ。これで生きていけるのだ。完全に楽勝だ。ワンサイドゲームだ。
傍らには誰かが置いて行った「BOYS BE…」の単行本があり、それを読みながら洗濯が終わるのを待った。
そうこうしていると、怪しげなおっさんがビニール袋いっぱいの汚れ物を手に持って入店してきた。おっさんはけっこうな量の洗濯物を持っていたが、どうしても一番小さい洗濯機(料金が安い)で回したかったらしく、パンパンになるまで詰め込んでいた。
それでも入りきらず、パンツとかを小さい団子状に丸め始めたので、それできちんと洗えるのだろうかと不安になった。そこまでするならもう大きいやつ使えよ、100円しか違わないだろ。そう思ったが口には出さなかった。
ピピっというアラーム音が鳴り響いた。どうやらこちらの洗濯が終わったらしい。布団丸洗い簡単だな、そう思いながら蓋を開ける。そこには簡単ではない事実があった。
出てきた布団は、中の綿が思いっきり偏り、固まった綿の塊がある部分と、テロテロの布だけの部分に綺麗に分離されたものになっていた。ちょっと布団としての機能を果たせないものが出来上がっていた。
どうやら高級な布団はそうではないようなのだけど、安い布団なんかは洗濯機で洗うとその遠心力かなにかで綿が偏ってしまうらしい。硬く寄り集まった綿はちょっと温かさを提供してくれそうにないものになり果てている。完全にダメなやつだ。
洗濯界では常識的なことかもしれないが、僕はそれを知らなかった。
完全に使い物にならなくなった布団を眺めていると妙にこみあげてくるものがあった。早い話、めちゃくちゃに悲しくなったのだ。
こんなこともできないのか。布団ひとつ洗えないのか。ちゃんと生きていけないんじゃないか。悔しくて不甲斐なくて悲しくてボロボロと泣けてきた。ただただ涙が止まらなかった。対面した時も、通夜でも、葬儀でも、涙なんて出なかった。でも布団を丸洗いできない、それだけで涙が出た。もう母はいないのだ、初めてそう実感したのかもしれない。
「あーあ、ダメだよ、布団を洗う時はヒモで縛らなきゃ!」
突如として、あのおっさんがパンツを折りたたみながら話しかけてきた。彼の手元にあるパンツはテクニカルに折りたたまれすぎて女子が授業中に回す手紙みたいになっていた。
「こうね、ヒモで縛らないと綿が寄っちゃうのよ」
おっさんは得意気だ。
なんだかうざい感じのおっさんではあるけど、その言葉は僕にとって救いであるような気がした。なぜなのだろうか。この時はよくわからなかった。
「そういうことは洗う前に言ってくださいよ」
「俺が来たときもう洗いはじめていた」
「ギリ間に合ったと思いますよ」
「すまんすまん」
あの時は分からなかったが、今になって理解できる。
「ヒモで縛らなきゃ」
おっさんのその言葉、そこには母の死がなかった。それが唯一の救いだったのだ。
通夜や葬儀の最中は、「この度は……」「お悔やみを……」「力になれることがあったら言ってね」そんな優しい言葉をたくさんかけられた。それは本当にありがたいことなのだけど、その言葉たちの中には当然ながら母の死があった。あまりに母の死を指摘され続けるものだから、自分で意識できなくなっていたのだと思う。だから僕にとっては他人事だったし、言われなくてもわかってるよ、という気持ちがあったのだ。
「あーあ、ダメだよ、布団を洗う時はヒモで縛らなきゃ!」
この言葉の中に母の死はなかった。それだけだ。それだけでなんだか前に進んでいるような気がしたのだ。そう、この広い世の中には、僕が母を亡くしたかわいそうな青年だということを知らない人がいる。それだけが救いだった。
綿が偏ってしまった布団と見ず知らずのおっさん、回る洗濯機、僕はそれらにずいぶんと救われた気がしたのだ。
僕らが住むこの世界は、あまりに言葉が多くなりすぎたのかもしれない。
本屋に行けば無数の言葉たちが陳列されている。手のひらの端末でアクセスすれば、よせてはかえす言葉の波に身を委ねることができる。言葉のやり取りは近年、人類において最も発達してきた事象なのかもしれない。
僕らの周りには言葉が溢れ、僕らは言葉に溺れている。
誰かが言葉を発すれば、それに呼応した誰かの言葉が返ってくる。
深夜に一人でラジオを聴いていた時代に比べればその言葉のやり取りは桁違いに増えたのだろうと思う。それと同時に、言わなくてはならないことが増えたように思う。
誰かが不幸にあったことを言葉で報告すれば、慰めの言葉を届けないわけにはいかない。なかば義務と化したこのやり取りは本当に意味があることなのだろうか。いや、もちろん意味はある。人がかけてくれた言葉に救われる経験は山ほどある。それは大切だ。けれども、予定調和に近いそれらの言葉に本当の言葉が埋もれてしまう、そんな時代が来るかもしれないのだ。
僕は母を亡くした時、布団を丸洗いしにいった。
どんな慰めの言葉やお悔やみの言葉より、「布団をヒモで縛る」という言葉に救われた。そう考えると言葉のやり取りの進化は、溢れすぎるであろう「言うべき言葉」より「言わない言葉」が大切なのかもしれないのだ。いずれ僕らの言葉たちは臨界を迎えるのかもしれない。
今日もSNSには言葉が溢れている。けれども、それは本当に必要な言葉だろうか。言うべき言葉の連続が、感じなければならない感情を作り出していかないだろうか。それはまるで布団の中で偏って固まってしまった綿のようなものではないだろうか。
父は、地域から村八分にされてまで協力を断り、葬祭ホールで葬儀を行った。何年かしてどうしてそういうことをしたのかきいてみたことがある。
「いろいろと言われたくなかったからな」
父は僕より早くそれに気が付いていたのかもしれない。
地域で葬儀をすればおそらくかけるべき言葉をそのままかけられるだろう。父はそれが嫌だった。そうして気持ちまで固まることを嫌ったのかもしれない。
時代は戻り、コインランドリー。
目の前には布団を持ったおっさんが涙ぐんでいる。何があったのかは分からないが、ここは病院の近くだ。そうである人が来るのかもしれない。もしそうであるのならば大切な人を亡くした人の何割かは突発的に布団を丸洗いしにくるのかもしれない。その気持ちは痛いほどわかる。
もしそうならお悔やみの言葉でもかけるべきなのだろうか。いいや、それはたぶん違うのだろう。
優しいお悔やみの言葉は、時に遺された人を追い詰めるのかもしれないのだ。布団を丸洗いした僕のように、頑張っていかなければならない、生きていかなければならない、固まった綿のようにそう思うのかもしれない。でも、遺された人たちはあまり頑張る必要はないのだ。その日その日を当たり前に生きればいい。それだけだ。気負う必要なんてない。
「布団を洗うならヒモで縛ったほうがいいですよ、大変なことになります」
笑顔でそう伝える。おっさんは目を赤くしていたが、笑っていた。
その後、おっさんと一緒に布団を縛った。
もう何年かしたら、僕は母が亡くなったときと同じ年齢になる。その時に何を思うだろうか。
とりあえず、コインランドリーの洗濯機からヒモで縛られた布団を取り出しながら、ちゃんと生きているよって天国の母に伝えたい。
そのときになって初めて僕の中に「天国の母」なんてセンチメンタルな何かが生まれてきているのだと思う。
僕は元気でやってます。そちらはどうですか。
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