好かれるのではなく上手に嫌われることが大切というお話
「おれたちおっさんはね、上手に嫌われなくちゃならないんだよ」
煙が充満する小さな居酒屋。木製の棚には乱雑に並べられた鏡月のビンが居座っていて、手書きのメニューは少しだけ茶色っぽく変色していた。換気のために開け放った窓からは、夕方と夜の境界線みたいな空が見えていて、小さな星が一つだけポツリと居心地悪そうに瞬いていた。
「え? 上手に嫌われるってどういうことですか?」
突拍子のない言葉に、少し身を乗り出してしまった。
この世の中の多くの事象は、おおよそ自分とは関係ないものばかりで構成されている。SNSを泳ぐ綺麗な女性も、宝石をまぶしたようなあのタワーマンションも、渋谷に降り注ぐ朝も、誰かの相談事も、誰かの離婚話も、あの標識だって、そのへんの石だって、突き詰めるとまあまあ無関係だ。そう考えると自分に関係あるものなんてほんの一握りの小さな光みたいなものなのかもしれない。草原にポツンと浮かぶペンライト、そんなものだろう。
それだって、きっと自分には関係ないはずのものだった。
「俺さ、職場で嫌われてんのよ」
そんな会話が漏れ聞こえてきた。小さな居酒屋の喧騒を楽しみながら一人でレモンサワーのグラスを傾ける。どうして砂肝とはこんなにも美味いのだろうか。この店の砂肝はさらに別格だ。もう一杯くらいレモンサワーいっちゃうかとオーダーしようとした瞬間、隣の会話が聞こえてきたのだ。
隣のテーブルはおっさんの二人組で、太いおっさんと細いおっさんの組み合わせだった。どうやら二人は釣り仲間らしく、たいそう盛り上がっていた。やれ、どこの釣り場が良いだとか、やれあそこはヌシみたいな釣り人がいるだとか、二人の共通の知り合いと思われる立山なる人物がチヌに似ているだとか、そんな会話がとりとめもなく続いていた。
ひととおり、釣りの話題が終わり、そろそろお開きかなという雰囲気が流れてきたところで、太いほうのおっさんが突如切り出した。
「俺さ、職場で嫌われてんのよ」
聴いていた限り、何の脈略も伏線もなかった。それなのに突如として、カミングアウトをぶっこんできたのだ。立山がチヌに似ているという話題のあとに突如としてぶっこんだのだ。
しかしながら、それを受けた細いほうのおっさんは、そういった深刻なトーンの話題を避けたかったのか、単純にこいつとは釣りだけの間柄という線引きをしているのか、職場の話を出されても困るよといったトーンで、サビキがどうとか、立山はチヌというよりアイナメみたい、と強引に釣りの話を続けようとした。つまり、避けたのだ。明らかにその話題を避けたのだ。あと、全然関係ないけど、チヌやアイナメに似てるってどうなってんだ立山。
「まあいいから聞けよ、これはそんな悲しい話じゃないんだ」
そんな気持ちを察したのか、太いおっさんは逃げる細おっさんを許さず、強引に軌道を戻した。少しトーンを変えて話し始めるおっさんに、まったく無関係であるはずの僕も思わず耳を傾けてしまった。
おっさんの職場は、20人ほどが机を並べてパソコンに向かう、そんな場所らしい。比較的自由に私物のスマホを使える環境のようだった。そのへんは緩いらしく、仕事しながらSNSに熱狂している若手もいるだろうなあ、理解できないけど、とおっさんは嘆いた。
ある時、おっっさんは気がついた。比較的に偉い立場のおっさんが指示だとか連絡だとの類を伝えるため、全体に向けて言葉を発することがあるらしい。すると、そのたびに「ポコペン」みたいな音があちこちから鳴り響くらしいのだ。
どうやら何かのメッセージが来たことを知らせるスマホの通知音らしく、最初こそは頻繁に連絡が来ているんだなと思っていたが、どうにもこうにもタイミングが良すぎる。明らかに自分の発言に応答して音が鳴っている、そう感じたそうだ。
「もしかして俺だけが入ってないLINEグループ的なものが作られている?」
そこでは熱心なサークルのようにおっさんの悪口が交わされているのかもしれない。だから何か発言するたびに「始まったよ」「ハゲチャビン」「デブハゲチャビン、略してデブビン」みたいな言葉がポコペンポコペン、祭囃子のように盛り上がっているのではないか、そう感じたそうだ。
それを確かめるため、わざとみんながムカつきそうな、ちょっと嫌なことを言ってみると、いつも以上にポコペンポコペンポンポコペン、煮えたぎるマグマの表面の気泡が弾けるがごとき勢いを見せたので、間違いない、俺の悪口LINEグループだ、と確信したようだった。
「考えすぎだろ」
細いほうのおっさんはそう言った。僕もそう思う。
「本当にそんなひどいことが起こっているなら会社のしかるべきところに相談したほうがいい」
細いおっさんは付け加えるようにそう続けた。僕もそう思う。しかしながら、太いほうのおっさんは笑いながら首を横に振った。
「いやいや、そうじゃないんだ。そうじゃないんだよ。これは嫌われてしまって悲しいとか許せないとか、そういう話じゃない。そこを勘違いしてはいけない」
おっさんは妙にもったいぶった口ぶりだ。細いほうのおっさんもその真意を測りかねるようでチヌみたいな顔をして聞いていた。
「俺たちおっさんはね、嫌われるのよ。嫌われる。それはしかたがないこと。ただね、俺たちおっさんはね、上手に嫌われなくちゃならないんだよ」
「上手に嫌われるってどういうことですか?」
身を乗り出して質問しそうになったが、危ない危ない、僕はただ隣に座っているだけの無関係な存在だった。
「上手に嫌われるってどういうこと?」
僕の気持ちを代弁するように細いおっさんが口を開いた。
太いおっさんはにやりと笑って答えた。
「もしかして嫌われているかもって思うことあるだろ?」
その言葉に細いおっさんが頷いた。僕も大きく頷いた。無関係なのに大きく頷いた。
「それが大切」
太いおっさんはグラスを傾けてそう言った。いつの間にか窓の外は真っ暗になっていて、街全体に影が落とされたみたいになっていた。
職場において、自分が嫌われてるかもって思うこと、僕にも心当たりがあった。
思えば、僕が「もしかして職場で嫌われているかも」と感じたきっかけは、栗拾いツアーだった。
その日はなんだかオフィスの様子が少しだけおかしかった。なんというか空気が澱んでいたし、詳しくないけど風水的な何かも良くない気がした。オフィスの全員が実はアンドロイドでしたと言われても納得してしまいそうな違和感みたいなものがあった。
僕のそういう良くない勘は当たるもので、やはり良くないものがそこにはあった。禍々しきものがあった。
通りかかりに同僚のデスクの山積みの書類をひっかけて倒してしまったのだ。「メンゴメンゴ」と言いながらこんなに山みたいに書類を積むなよと思いつつ、それらを拾っていると、その場所に、禍々しきものがあった。パンドラっぽいものがそこにあった。
「栗拾いツアーのお知らせ」
今でも覚えている。栗拾いツアーの「ツ」の点々の部分が栗で書かれていた。そんなポップなプリントだ。みんなで親睦を深めるために秋のツアーを実施しますみたいなことが勇ましく書かれていて、大型バスもやってきて大掛かりな感じだった。ちょっとジョークっぽく「おやつは1000円までです!」って書いてあったのが妙に腹が立った。
「そっか、みんなで栗拾いツアーにいくのか、これはいっちょ拾いまくるか」
少しだけ胸が高鳴った。こういう機会でもないとなかなか栗拾いに行こう、とはならないからだ。
ただ、よくよく注意してみると、みんなその「栗拾いツアー」のプリントを受け取っているようだったが、何回と探してみても、僕のところには配られていなかった。何かの間違いで紛れ込んでいるかもと、僕の机の上に山積みになった書類や、本棚、デスク引き出しの一番下のでかいところまで漁ったけど、まったくもって存在しなかった。
そんなはずはない。あのプリントには「みんなで」みたいな、ワンチームっぽいことが勇ましく書かれていた。それなのに僕だけ誘われないなんてことがあるか。もしかしたら当日とか前日まで僕をハラハラさせておいて、サプライズでしたー! さあ、栗拾い行きましょう! ってことをやるつもりかもしれない。なんだよ、面倒くさいやつらだなー、ったく、しょうがねえな、驚いてやるか、とハラハラしていたのだけど、プリントに書かれた日程の前日も、その当日も、何もなかった。本当になにもなかった。別の意味で驚いたわ。
いつ呼ばれてもいいように「イガイガは痛いからな」と軍手まで用意していたのに、呼ばれなかった。本当に、僕だけ栗拾いツアーに呼ばれなかった。もう一度いっておく、僕だけ栗拾いツアーに呼ばれなかった。
「いやなこと思い出しちゃったな。あの日はスーパーで甘栗を買って食べたんだった」
太いおっさんの言葉に記憶の蓋がこじ開けられてしまった。勝手に人の嫌な記憶を蘇らせておきながら微塵も悪びれず、当のおっさんは不敵に笑っていた。
「ただな、嫌われているかも、くらいが一番上手な嫌われ方なんだよ」
その言葉に細いおっさんは首を傾げた。僕も傾げた。
「嫌われているかもって思う状況と、決定的に嫌われている状況はそもそも違う。俺の場合は、間違いなくLINEグループで悪口を言われているわけ、決定的に嫌われているわけ。そうなったのは俺の嫌われ方が下手だから」
嫌われ方の上手下手という新しい概念の登場に驚きを隠せないが、少しだけ理解できる部分もある。
栗拾いツアーに誘われなかった僕も、おそらくではあるが、決定的に嫌われているわけでないのだと思う。誰かが積極的に「あいつ呼ぶのやめようぜ」と言ったわけではないだろう。たぶん、嫌われているのは間違いないけど、積極的なそれではなく、嫌われているがゆえに誘うのを忘れられ、嫌われているがゆえに「あの人、誘ったっけ?」と誰も気にならなかっただけなのだ。特に必要とも思われていないわけだ。
その証拠に、後日、誘われなかった栗拾いツアーの代金を徴収されたからな。積極的に嫌って排除したのならそもそも料金を徴収しようという考えに至らない。ただ、嫌われて空気のように思われていたから誘われなかった。でも料金は徴収された。クソすぎるだろ。
「悪口LINEグループを作られるまで嫌われるとね、仕事に支障があるでしょ、だから下手な嫌われ方なの」
太いおっさんの言葉に細いおっさんが黙り込む。何かを考えこんでいるようだ。そして絞り出すように質問を投げつけた。
「じゃあ上手な嫌われ方ってなに?」
グラスに残っていた氷が解けて、カランと音がした。そして底には新しい液体が作り出されていた。太いおっさんはそれを大切そうに飲み干したあとに答えた。
「空気のように嫌われるといい。職場の飲み会や行事に自然と呼ばれない、みたいな。それが上手な嫌われ方だな」
「栗拾いツアーだ!」
思わず声をあげてしまった。太いおっさんも細いおっさんも目を丸くしてこちらを見る。当たり前だ、ひとりで飲んでいる隣の客が突如として「栗拾いツアー!」と叫ぶのだ。誰だって驚く。
「いや、なんでもないです」
なんとか誤魔化す。危ない危ない。僕は二人とは無関係、無関係。
確かに僕は上手な嫌われ方をしているのかもしれない。栗拾いツアーに誘われないことも、飲み会の誘いが来ないことも、確かに嫌われているんだろうけど、別に仕事に支障はない。これが、大切な連絡がこないだとかだと大きく支障があるが、そこまでの一線は踏み越えてこない。それは積極的に嫌われていないからだ。上手に嫌われている、そういうことなのかもしれない。
「上手に嫌われるってどうすればいいんだよ」
細いおっさんがさらに問いただす。太いおっさんは待ってましたとばかりに即座に答えた。
「好かれようとしないこと。嫌われないようにしないこと」
太いおっさんいわく、最初は自分も「嫌われているかも」という気持ちがあったようだ。つまり上手い嫌われ状態にあったそうだ。ただ、そこでブルってしまい、なんとか嫌われまいと頑張った。好かれようとした。具体的には、尊敬できる人だと思わせようと仕事における過去の成功体験、つまり武勇伝をことあるごとに語った。若手の私生活に介在し、打ち解けようとした。相談に乗ってやったりもした。気さくで愉快な人間だと思われたくて、テレビで流行っているお笑い芸人のネタを惜しみなく繰り出したりもした。身なりにだって気をつけて雑誌を見たりもした。でも、思えばそれらは全部が逆効果で積極的に嫌われる要因にしかならなかった。
「だから俺の嫌われ方は下手」
太いおっさんは自嘲気味に笑った。
そう考えると、やはり僕は嫌われ方が上手いのかもしれない。「嫌われているかも」から思考停止し、まあそうだよな、僕だって僕がそこにいたら嫌いだわ、納得、で話が終わっている。だから嫌われ対策をとらないのでそれ以上、積極的に嫌われることはないのかもしれない。
根本的なところで人は人に好かれない。好かれていると思ったりしても、それは大いなる錯覚でしかなく、その錯覚は逆の感情を引き起こすトリガーにしかならないのだ。
これはなにも「おっさんは嫌われるべき存在」という話ではない。根本的に人は嫌われる。男も女も、老いも若きも、基本的に嫌われる。職場という希薄なのに濃厚な共同の中でそれが顕著になり、おっさんは槍玉にあがりやすいだけなのだ。嫌われるのだったら上手に嫌われるべき、太いおっさんはそういうことを言いたかったのだ。
「下手な嫌われ方すると仕事に支障が出るだけでなく、とても面倒なことになる」
太いおっさんの嫌われ理論はまだまだ続く。
たとえば、これが空気のような上手な嫌われ方の場合、それに異を唱える人間は出現しない。なぜなら誰も積極的には嫌っていないからだ。ただ、積極的に嫌われると、それは良くないと異を唱える人間が現れる。それはとても正義であり、正しいことであり、素晴らしいことだが、同時にけっこう面倒なことを引き起こす。太いおっさんの場合、それは吉田君という若い子だったようだ。
「俺はね、送別会を断ったんだよ」
「ああ、そうか、そうだよな。そうだったな。もう釣りにも行けなくなるな」
どうやら会話の内容から察するに、太いおっさんは転職か転勤か、今の職場とこの街を離れることになるらしい。細いおっさんがなんとも寂しそうな表情を見せていた。そして、当然ながら送別会にみたいな流れになるけど、嫌われていると確信している太いおっさんはそれを固辞した。どう考えても良くない雰囲気の中で執り行われる送別会。考えただけで恐ろしい。
ただ、吉田君はそれを良しとしなかった。かねてから、そういうのは良くないみたいな態度でおそらく悪口LINEにも参加してない感じの吉田君、絶対に送別会をやるべきだとみんなに提案したそうだ。きっと正義感が強いんだろう。その際にもポコペンポコペンと祭囃子が聴こえた。
「それはきついな」
細いおっさんがこの世にこんなおそろしいものってあるだろうか、みたいな表情で言った。
「きついよ」
確かにきつい。たとえば、僕が下手に嫌われていて、それは積極的な嫌われで、それを良しとしない熱血漢が、なんであの人だけ栗拾いツアーに誘わないんだ、そういうの許せない! と声高らかに正義を振りかざしたとしたら、まあまあどころかけっこうなきつさだ。耐えられない。下手に嫌われるってのはこういう弊害もあるのだ。
「ほんと送別会はいいから、気を遣わなくていいからって頼みこむようにして勘弁してもらったけど、今度はみんなで見送りにくるって言いだしてね、いやいや深夜バスで行くからってそれも断ったんだけど……」
吉田の熱意がすごい。何が彼をそこまで駆り立てるのか。同時にそのやりとりの後ろでポコペンポコペン鳴り響いている状況が容易に想像できる。
「断ったんだけど……?」
細いおっさんが身を乗り出す。続きが知りたいという顔をしている。僕も無関係なのに身を乗り出した。
「XX公園って知ってます? あそこの丘って高速道路から見えるんですよ。僕ら全員、そこでペンライト振りますね。きっとバスから見えます、見てください、って言うんだよ」
「きっつ!」
思わず叫んでしまった。ただ、話に夢中な二人のおっさんは、こちらは見ることはしなかった。助かった。
これはとんでもなく恐ろしいことだ。下手に嫌われるってのはこういうことを引き起こしてしまうのだ。もうスマホが壊れるくらいポコペン鳴ったんだろうなあ、怖いなあ。
「まあ、あっちに行く前にもう1回くらい釣りいけるだろ。いついくんだっけ?」
「4日の23時」
二人のおっさんはそんな会話をしつつ、最終的には細いおっさんが「じゃあ、そろそろ」といまどき誰もやらねえだろ、と言いたくなるドロンというポーズを見せてお開きとなった。
「上手に嫌われる、か……」
二人がいなくなった居酒屋で、ポツリと呟いた。同じ嫌われるなら、僕たちは上手に嫌われなくてはならない。なんとも勉強になった一日だった。
その日は、朝から胸騒ぎがした。嫌な予感がした。なんというか空気が澱んでいたし、風水的な何かも良くない気がした。見るものすべてが灰色のフィルターを通しているような違和感みたいなものが確かにあった。もしかしてまた栗拾いツアーの惨劇みたいなことが起こるのかとブルっていたが、そうではなかった。そう、今日は4日だったのだ。
あの居酒屋にいた太ったおっさんがこの街を離れる日。バスに乗る日。ペンライトが振られる日。だから胸が騒いだのだ。
「XX公園って言ってたな」
気が付くとあの公園に向かっていた。それは興味本意ではなかったように思う。何かをあざ笑ったりとか、何かを批判したりだとか、そんな動機でもなかったように思う。ただ、見届けなければならないと思った。あの太ったおっさんがこの街を離れるにあたって遺した軌跡、どんな嫌われ方をしたのか、それを見届けるため、吉田率いる連中がいかにペンライトを振るのか見届けなくてはならないと思った。それはもしかしたら僕に課せられた義務だったのかもしれない。
深夜の公園に人の姿はなかった。高速道路が見える郊外の公園、誰もいるはずもなく、闇の中にポツリポツリと何かの道を指し示すかのように街灯が置かれ、そのうちのいくつかは電球切れで瞬いていた。空はあいにくの曇り空で星ひとつ見えないその暗さが、公園の闇を引き立てていた。
「ここから高速道路は見えるけど、どれがどのバスかなんてわからないな」
高速道路は眩いばかりの光の帯になっていて、まるで天の川のようで、その一つ一つの星に想いを馳せることは難しそうだった。
「結局、誰も来なかったんだな」
公園に人の姿はなかった。
そんなものかと思って帰ろうとすると、ベンチに座っている男性の姿が見えた。少し遠い暗闇に佇むその姿は良く判別できなかったけど、確かに男性で、光る何かを小さく振っているように見えた。もしかしたら吉田君なのかもしれない。いや、きっと吉田君だ。彼は一人でおっさんを見送りに来たのだ。そう思いたい。
なんだかそう思うと心が震えた。なんだか分からないけど心が震えた。
僕もスマホの画面を光らせて天の川に向かって小さく振る。
「おっさん頑張れ、頑張れ、新しい土地では望みどおり上手に嫌われてください」
おっさんは下手な嫌われ方をしたと言った。人は人に嫌われる。どうせ嫌われるなら上手な嫌われ方をするべきだとも言った。吉田君みたいな存在は、下手に嫌われた故に生じたともいった。でも、こうして律儀に光を振る吉田君と思われる彼の姿を見ていると、下手に嫌われるのもそう悪くないんじゃないだろうか。そう思えるのだ。
「おっさんがんばれ」
どれがバスかなんかわからない。それでも僕はスマホを振った。
僕らは嫌われる。その嫌われ方が上手であろうが、下手であろうが、それが生きた証なのだ。それを恥じてはいけない。思い悩んでもいけない、悲しんではいけない。ただ、その証を刻み続けていけばいいのだ。僕たちは嫌われる。好かれようと思うな。
ふと上を見上げると、雲の切れ間から、小さな星が2つだけ見えた。その小さな星は居心地悪そうに瞬いていたけど、ずいぶんと心強い光にも思えた。
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