誰が望月君を殺したのか

余計なお世話と力なき善意の狭間でというお話
pato 2023.05.16
誰でも

仁川空港からソウル市内まで続く地下鉄はどこか近代的であり、都会的でもあり、気持ちのいいものだった。

すべての車両がそうなのかはわからないが、乗った車両の座席はすべて深青色のクッションで、端っこの部分だけピンク色になっていた。そのピンク色の座席にはハングルでデカデカとなにかがプリントされていて、さらにはその下には日本語で「妊婦専用」と書かれていた。つまり優先席ということだろう。

これがなかなか徹底されているようで、すべての座席の端っこがそうなっているし、満員電車とまではいかないけどすべての座席がほぼ埋まっている状況であっても、誰もそこには座っていなかった。

飛行機で韓国へと到着した僕は、そのほぼ満員の車内で立っていた。無理に空席を探せば座れただろうが、それでも立っていた。韓国の景色ってやつを見ていたかったからだ。地下の暗闇を走っていた地下鉄はすぐに地上を走り始めていて、遠くに大きなマンションが見えた。その迫力に圧倒され、ドアの横に陣取り、ジッとその光景を眺めていた。

すると、トントンと肩を叩かれた。振り返ると、中東からきたっぽい女性が満面の笑みで立っていた。どうやら彼女も僕と同じように仁川空港に降り立ってソウルへと移動するために地下鉄に乗ったようだ。その証拠に、彼女が座っていた座席あたりには、仲間であろう男性が3人ほどいて、いずれもかなり大きな荷物を持っていた。

満面の笑みを携えた彼女は完全に言葉が通じないのだけど、身振り手振りで何かを伝えようとしている。要するに「あんた座る席がないから立っているんだろう、ウチが荷物を寄せたから座れるで」と言いたかったようなのだ。

見ると、彼女の座っていたあたりは、あれだけあった荷物がぎゅうぎゅうに圧縮されて男性の方に追いやられていた。あんたも座れるから安心していいよ、とまた彼女はいたずらな表情で笑って見せた。

彼女の善意は大変うれしいのだけど、僕は韓国の、ソウルの町並みを眺めたいという思いがあった。それにはドア付近に立っているのが一番なので、まあ、ものすごく極論を言ってしまうと彼女の善意は「余計なお世話」なのである。

この善意にはさらに続きがあった。彼女が「私が詰めたから空いたよ! 座れるよ」と満点のスマイルで勧めてきた座席は、思いっきりピンクの妊婦専用の席だった。ハングルと日本語で書かれていたので、たぶん彼女には読めなかったのだと思う。やけに派手な色合いの席だな、オシャレだな、くらいに思っていたのかもしれない。

「そこは妊婦専用だから」

と断ろうと思ったのだけど、おそらく通じないし、彼女の無垢な笑顔を見ていたら断るのも悪い気がした。結果、なんとも収まり悪く妊婦専用のピンクシートに座ることになったのだ。

「よかったね、座れたよ。私が詰めたから座れたよ」

と満面の笑みでこちらをチラチラみてくる彼女に、僕も苦々しい笑顔を返すことしかできなかった。

それだけならまだしも、駅に到着するごとに地下鉄車内ではご丁寧に日本語で「ピンク色の座席は妊婦専用です。座らないでください」みたいなアナウンスが流れる始末。まるで僕に言い聞かせているように思えた。

僕は韓国にまできてなんでこんな重大なマナー違反を犯しているんだろう、といたたまれなくなってしまい、結局、目的地ずいぶん前の駅で降りる羽目になってしまった。

「ありがとう、助かったよ」

みたいな表情を見せて降りるしかなかった。もちろん、降りると見せかけてホームを爆走し、違う車両に乗り込んだのだけど、息切れをしながら駆け込んだ車内で、なんでこんな全力疾走をしなければいけないんだ、と困惑するしかなかった。

僕はこういった、誰かの善意なのだけどすごく迷惑だなあ、という行為に直面した時、必ず思い出す顔がある。それが、小学校時代の同級生だった望月くんの顔だ。望月くんの笑ったような、困ったような、何とも言えない表情を思い出すのだ。

あの時もそうだった。

数年前のことだったと思う。その日は休日で、昼間から酒でも飲んでやろうと近所のドラッグストアに行った時のことだった。何本かのストロングゼロを購入して帰る途中、通りの向こうで4人ぐらいの小学生男子の集団がわいのわいの騒いでいた。

なんだろうと眺めていると、その集団の一人と目が合ってしまい、それを合図にワーッと全員がこちらに駆け寄ってきた。

「すいません、今お時間ありますか?」

ずいぶんとませた掴みをする小学生だなあと思いつつ、返事をする。

「うん、だいじょうぶだよ」

なにせ、おっさんは家に帰ってストロングゼロを飲むだけだ。それも2缶を飲み干すだけだ。時間は有り余っている。

「クレジットカードが落ちていたんです! 落とした人は困っていると思うので交番に届けてください! 大人が届けたほうがいいと思うので!」

「それは大変だ」

きっと落とした人は必死に探しているに違いない。それどころか、カードを止めたりとか各所に連絡とか大変なことになっているのかもしれない。

「わかった、交番に届けるよ」

そう言うと、子どもたちは安堵の表情を見せた。そして拾ったクレジットカードをこちらに差し出した。

「これ、iTunesカードじゃん」

そこには青いプラスチック製のカードがあって、ど真ん中にドーンとりんごのマークが描かれていた。コンビニなんかで売っているやつで、このカードに書かれているコードでチャージし、音楽やアプリ、コンテンツをダウンロードするためのものだ。

裏面を見ると、しっかりとコード部分が削られていたので、おそらくコンビニで購入した人がコードを記入し、もうカードは不要だからその辺に投げ捨てたのだと思う。つまり、このカード自体はもう何の価値もないゴミでしかないのだ。

アホらし、これはもう不必要だから捨てられたんやで。その辺に捨てるのは良くないけどね。これは何の価値もないゴミなんだ。クレジットカードでもなんでもない、とポイっとすることもできたのだけど、少年たちの純粋な瞳をみていたらできない感じがした。

「マジでビックリしたー、ケンちゃんよくクレジットカードだってわかったな」

「まあな」

「まじで良いことしたな!」

みたいな会話をしつつ目をキラキラさせている少年たちに合わせるしかなかった。

「わかった、落とした人も困っているだろう。これは責任もってお兄さんが交番に届けるよ」

自分のことをおっさんではなくお兄さんとしっかりと主張しつつ、子どもたちの純粋な善意も壊さずにカードを受け取る。完全に満点の対応だ。まあ後でごみ箱に捨てておけばいいか、などと考えていた。

「あとは任せとけ!」

そう言って歩き去ろうとすると、一人の少年が言い出した。

「なあ、あのおっさん、もしかしてカード盗んだりするんじゃない?」

それをきっかけに、疑惑の視線が僕に向けられることとなった。

「そういえばそうだ。あの人が交番に届ける保証はない」

「せっかく僕たちが拾ったのにあの人に盗まれたら意味がない」

そこにはもう、純粋な眼差しなど存在しなかった。疑いの眼差しがあるだけだった。

「本当に交番に届けるか怪しいもんだ。尾行しようぜ」

「そうだな!」

「なんか盗みそうだもんな!」

「盗賊みたいな見た目だしな!」

大変なことになった。本当に子どもたちがバレバレの尾行でついてくる。こうなると、どこかのゴミ箱にカードを捨てるわけにもいかない。交番に行くしかないわけだ。不必要とわかりきっているカードを届けに交番にいくしかないわけだ。たしか、ここから交番までは歩いていくにはまあまあ遠いはず。本当に大変なことになってしまった。

結局、交番に到着して、「僕はこのカードが役割を終えていて、まったく価値がないものだと理解しているのですが、それでも届けに来ました」と高らかに宣言して届け出を行った。警察官の方も遠巻きに見守る子どもたちの存在を理解し、形だけの書類を作ってカードを受け取ってくれた。

あの、子どもたちの「これが善意」と信じて疑わないあの表情が、また望月くんと重なった。おそらくそれは僕にとっての懺悔なのだろうと思う。

望月くんはクラスメイトだった。おそらくうちの地域だけなのだろうけど、僕が通っていた小学校では地域の特産品である、まんじゅうが給食にプラスされる日があった。月に一度くらいの頻度で提供されていたのだけど、完全に給食から浮いた形になっていたので、たぶん別枠で地元企業が提供していたんだと思う。

そういった明らかに感じとれるお得感から、児童の間ではまあまあ人気があった。まんじゅうの日に休んだやつが出た場合、余ったまんじゅうを巡って骨肉の遺産争いみたいな激しいバトルが展開される状態だ。僕の記憶の限り、そんな遺産相続バトルになったのは冷凍ミカンとこのまんじゅうくらいのものだった。

突然のことだった。

「地元企業の経営難によりまんじゅうの提供はなくなりました。今後はお家で購入してくださいね」

みたいな、けっこう生々しい理由が説明され、まんじゅうの提供がなくなってしまった。それだけならまあ、残念だなくらいの感覚なのだけど、今まで提供してもらったお礼も込めて、手紙を書きましょうみたいなことになってしまった。道徳の時間を使って書き上げた手紙を皆の前で朗読してまんじゅうに感謝する、という理に適っているんだかなんなのかよくわからない会が催されることになったのだ。

まんじゅうへの感謝の手紙は、原稿用紙2枚以上、と鉄の掟によって決められていたので「ありがとう」で済ませることはできなかった。多くの人が経験あると思うのだけど、こういった個人の心情を書くのに「何枚以上」みたいな制限を設けられた場合、まあ、同じ固有名詞を何度も出して文字数を稼ぐか、思ってもいないことを書き始めるか、そういった対策をとる。

まんじゅうへの感謝を800文字以上も書くことは小学生にとって苦痛でしかなく、みんな思ってもいない感謝を書き始めた。そしてそれが次々と朗読されていく。辛くて悲しかったけどまんじゅうがあったからなんとか乗り切れた、みたいな本当かよと言いたくなるトーンの逸話がポンポンと飛び出してくる。

そうなると小学生なんて単純なもので、失ってしまったまんじゅうが本当にかけがえのない存在であったかのような気分になってくる。まあ残念だね、くらいの感情だったのに、友を失ったくらいの悲壮感になってくる。集団ヒステリーみたいなものだと思うのだけど、朗読しながら泣き出す女子とかまでいて、それに呼応してもらい泣きする女子までいてすすり泣きが聞こえ、不慮の事故でまんじゅうが逝ったみたいな雰囲気が蔓延しはじめた。

確かにまんじゅうは人気があったメニューだけど、まあ、ないならないで、いいかなって存在だ。みんなですすり泣くほどの存在ではない。ただただ僕らは心に穴をぱっかりと、それも無理やり大穴をあけられたような気分になり、ただただまんじゅうとの別れを惜しんだ。

数日後だった。

望月くんがまんじゅうを持ってきたのだ。

「みんなが悲しんでいたから、家で作ってきた。欲しい人は取っていってよ」

銀色の大きなトレーの上にラップがしてあって、50くらいのまんじゅうがぎっしりと並んでいた。本来、こうやって食べ物を学校に持ってくることはご法度だが、保護者を通じて特別に先生の許可を取ったとも言っていた。

「みんなが悲しんでいたって話したら、お母さんが作って持って行けって」

望月くんはそう言って笑った。

望月くんのまんじゅうは、教室後ろの観察台の上に置かれ、欲しい人は持っていくこと、ひとり2個までとアナウンスされた。

まんじゅうとの別れに感謝を告げ、深い悲しみに包まれたクラスメイトを元気づけようと50個のまんじゅうを作ってきた望月くん。けっこうな美談になりそうなエピソードだが、実際には違った。なにせ望月くんはお菓子を作るのが得意だとかそういった要素が一切なく、むしろ初めてで、完全に手探りみたいなフィーリングで作ってきたのだ。そこに技術はなく、ただ善意だけで作ってきたのだ。

当然、まんじゅうの見た目はボロボロで、ちょっと手を出しにくい外観をしていた。正直に言ってしまうと、ちょっと口に入れたくはないオーラがムンムンに出ていた。むしろまんじゅうかどうかすら疑わしい感じだった。

それはみんな同じのようで、その日、誰も望月くんのまんじゅうに手を出さなかった。食いしん坊の山川すら手を出さなかった。50個のまんじゅうと銀色のトレーが、ただただ静かに教室の後ろに鎮座していた。

次の日、変わらずまんじゅうはそこにあった。ただ、もう誰もまんじゅうのほうすら見なくなっていた。昨日の状態で手を出さなかったのに、一日が経過したまんじゅうに手を出すものなどいない。みんな後ろめたい気持ちを抱えていたので、もはや誰も視線を向けなかった。

さらに次の日、あの銀色のトレーとまんじゅうは、この教室内において完全に「触れてはいけない」アンタッチャブルな存在となった。先生すらもどう扱っていいのかわからず、存在を無視し続けていた。

望月くんは悲しそうだった。目が死んでいた。僕らも苦しかった。先生もどうしていいのか分からないようだった。

ちょうど、今のように雨がたくさん降る季節だったように思う。白かった望月くんのまんじゅうは日に日に色とりどりの鮮やかさを誇示するようになった。そこからどうなったかは覚えていないが、たぶん、誰かがいたたまれなくなって捨てたのだと思う。放課後に先生が捨てたんじゃないかと思っている。

みんな心が重く苦しかった。彼の善意を受け入れなかった自分に、少なからず負い目を感じていた。

きっと望月くんも苦しかったはずだ。僕はいまだにあの時の望月くんの表情を忘れられない。

ただ、望月くんに悪意はなかった。見た目的に微妙なまんじゅうを持って行って皆を嫌な気分にさせてやろう、という邪悪な思想があったわけではない。純粋な善意だけだった。それなのに、そこにいた全員が苦しさを覚えたのだ。

これらはいったいなんなんだろうか。誰が望月君の善意を殺したのだろうか。

韓国地下鉄で席を譲ってくれた女性も、iTunesカードを拾った小学生たちも、望月くんも、そこには善意しかなかった。「いいことをしたい」という純粋な気持ちがあって、それが行動になって顕れたに過ぎない。

それなのに、それを受け取った人間は迷惑を感じてしまう。下手したらそういった善意を迷惑に感じてしまう自分自身に嫌悪を覚えるかもしれない。

けれども、こういった構造は、往々に、それこそあちこちに存在する。それはなんだろうかとずっと考えていたが、最近になってひとつの結論に達した。

これは「力なき善意」なのだ。

地下鉄内の案内を読めないのに席を譲ろうとした、クレジットカードでないことを知らずに届けようとした、まんじゅうを作れないのに作ろうと思った。すべて、それをなんとかするスキルがあれば問題なかった行動ばかりだ。その善意に力がないゆえに、誰かを困らせている。

少なからず、こんな経験は誰にでもあるはずだ。

知人の結婚を祝いたいと思った時、何もできない自分に気が付いた。

たとえば、僕が綺麗な歌声の持ち主で、超絶に歌も上手だとしたら、披露宴では喜ばれるだろう。ただ、現状の僕がそれをするとジャイアンリサイタルにしかなりえない。僕がピアノを弾けるなら、麗しい祝いの曲をプレゼントできるだろうし、感動的なスピーチができるなら、会場を感動の涙で包むこともできただろう。ただ、それらのスキルは僕にはない。その状態でこれらを決行することは、無力を高く飛び越して迷惑でしかないのだ。

多くの場面で「力なき善意」は無力を通り越して迷惑なのである。それを「気持ちが大切だから」で誤魔化してきたから、誰もがちょっと後味の悪い気持ちを抱える構造になっているのだ。そんな事例はこの世にいくらでも存在する。

ただ、僕はこの「力なき善意」が悪いものだとは思わない。

なぜなら誰かのために何かをしたいという善意は誰もが持つ共通の気持ちだからだ。問題はそこに力がるかないか、という点だけだ。

では、力がある人だけが適切な善意を行えばいいのだろうか。

震災の後、大御所俳優が被災地に炊き出しのトラックを何台も出したように、事業で成功した富豪だけがその財力で善意を行使するべきろうか。芸能界で成功した有名人だけがその影響力を使って善意を行うべきだろうか。きっとそうではない。

僕はこれらの力ある人たちが力を持ったから突然に善意に目覚めたとは思わない。きっと、だれもが少し後味の悪い、力のない善意を経験しているはずだ。あのときああしたけど、迷惑だったなああ、あとから思い返してそう思うことがあるはずだ。恥ずかしくて布団に潜りたくなる経験を経たはずだ。力を得た時、その力なき善意の後味の悪さを思い出すのだ。

もし、地下鉄で席を譲ってくれた彼女が、ハングルか日本語の意味を理解するという力を得たら、「あー、あのときに私が勧めたのは優先席だったんだ、悪いことしちゃったな」と理解するだろう。

子どもたちが大人になり、スマホを持つという力を得たとき、課金したいと考えてiTunesカードに行きついた時、あのとき僕たちはこんな意味がないものを拾って騒いでいたのか、あのおっさんに迷惑かけたな、と思い出すはずだ。

人は力を得た時、はじめて力なき善意の意味を知る。そして、こんどは手に入れた力を適切に使って善意を行使するのではないだろうか。

この世界は、ことさら善意が批判される世界になったように思う。力なき善意はもちろんだが、力のある善意すら、細部をつついて批判されることもある。

「その善意は迷惑だよ」

力なき善意にそう指摘するのも大切なことかもしれない。その善意がたとえ善意であっても、周囲に尋常ではない迷惑をかけることもある。ひとくくりに議論できることではないのは理解しているが、「迷惑だからやめろ」と当事者ではない周囲の声があまりに大きすぎではないだろうか。

力なき善意を行っている人は、ことさら叩かれたとしても、本人にとってはあくまでも善意なのだ。何が悪いのか理解できず、結局、善意が悪いのか、と判断してしまうこともある。そうなるともう、力を得ても善意を行使しようとは思わない。

僕は、望月くんのまんじゅうを食べるべきだったと思う。誰もあのまんじゅうに手を出さなかったのは、その力なき善意は迷惑であるという無言の指摘だろう。きっと、望月くんはあの経験を経て、二度と誰かのために何かを作ろうなんて考えないはずだ。

力なき善意は迷惑である。それは断言できる。けれども、その力のなさと後味の悪さを、力を得た時に思い出すべきなのだ。力のないときに指摘されても、きっとそれは意味がない。

望月くんの見てくれの悪いまんじゅうも、千羽鶴も、手作りの防護服も、それらは善意だけど迷惑でしかない。間違いない。ただそれを受け入れる寛容さが急速になくなっていく、 この世界は少しだけ息苦しいなあと思うのである。

ただ、善意を行う側も、「善意だからいいだろ」と批判に耳を貸さない姿勢は良くない。「もしかして力なき善意は迷惑かも」と立ち止まって考える寛容さが必要なのだ。

優先席の横でニコニコ笑う彼女、目をキラキラさせる小学生、その善意は確かに迷惑だけど、それらに囲まれるのはそんなに悪い気はしない。少なくとも僕はそう思うのだ。

あの日、あの時の望月くんの悲しそうな顔と、なぜかカラフルな色合いになっていたまんじゅうを今でも思い出す。できることなら、その後、なんらかの力を持った望月くんが、まんじゅうを持ってきた時のような笑顔で周囲に善意を振りまいていて欲しい、そう願ってやまないのだ。

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