なぜ靴下は片方だけなくなるのか
「なぜ靴下は片方だけなくなると思う?」
場末の酒場でウィスキーのグラスを傾けながら老人はそう言った。知らない人だ。
「さあ、わかりませんね」
少しぶっきらぼうに答えた。その問いかけに興味があったわけではない。早めに会話を切り上げたかったのだ。
酒と肴が美味い店、この店に求めるのはそれだけだ。もしかしたら少しばかりの喧騒も求めていたのかもしれない。ちょっとしたざわつきの中で酒を飲みたかっただけなのかもしれない。
だから老人の問いかけは本当に不要なものだった。このぶっきらぼうな答えにはこれ以上会話を続けるつもりがないという意思表示が含まれていた。
「それはな、両方なくなった靴下はなくなったことにすら気づかないからだよ」
老人はおかまいなしに続けた。そしてニヤリと笑う。
確かにそうだ。そもそも両方が揃った靴下は記憶にすら残らない。当たり前だからだ。両方なくなった靴下は認識すらされない。余程お気に入りだとか、目立つ色だったとかしない限り靴下はそこにあった痕跡を残さない。
「つまり、靴下は特別に片方だけなくなったりしない、とということですか?ただ片方がなくなった事象だけを認識するから片方なくなることばかりに思うってだけで」
そう答えると彼は残りが2割ほどになったグラスを見せびらかすように顔の前に掲げ、小さく頷いた。
会話が終わる。
沈黙する二人の間を酒場の喧騒が通り過ぎていった。老人はグラスの中のものを慈しむように深く味わっている。
「あの、いつもこの店に?」
なぜか自分から彼に話しかけていた。
「ああ、いつも来てるよ、常連だ。いつもこの席でウィスキーを飲みながら他の客を観察してるのさ」
自分もある程度はこの店に通っていて、店員にも顔を覚えられている。常連、といえる立場にあるはずだ。それでも彼の存在には気が付かなかった。
「すいません、気付かずに」
そう言うと彼は笑った。
「靴下も人間も同じさ、片方だけなくなる、話しかけられる、そんなことがないと気が付かないものさ。玄関に置かれた風景写真の額縁だって、曲がったりしてない限り気にも留めないだろ」
わずかばかりにグラスに残っていた茶色の液体をぐいっと飲み干した。そして大きく呼吸すると少しだけ近づいてきて囁くようにいった。
「アンタはいつもこの世の終わりみたいな顔してるよ」
なんだかドキッとした。確かに今日は仕事のミスで落ち込んでいる。落ち込んだときはこの店に来て酒を飲むことにしている。まるで見透かされているような気がした。
「そ、そうですかね」
明らかに動揺を隠せていないが、なんとか取り繕って返事をする。彼は持ったままだったグラスをカウンターに置くと、少し間を置いて切り出した。
「そうだ、ゲームをしよう。君が元気になるようなゲームだ」
なんだろうか。少しだけ気になった。自分の心の内を見透かした彼の言葉に耳を傾ける気持ちが出てきた。
「なあに、だれにでもできる簡単なゲームさ。それに若い君の方が有利だ。この老人には体力がないからね。そうだ、何かを賭けないとつまらないな。ここの飲み代を賭けよう、君が勝ったらここは奢る。私が勝ったら、そうだな、私が望むものをくれ」
「望むもの?」
「ああ、大したものじゃないさ。どうせ君が勝つんだ、気にする必要はない。ただ君に飲み代を奢ってやって元気を出してほしい、それだけさ。ゲームなんて形式にすぎんよ」
不思議なことを言う老人だ。けれども、どんなゲームかは知らないが、どうもこの老人は本当に自分を元気づけようとしているようだ。つまり飲み代を出してくれるつもりなのだろう。懐が少し寂しい身としてはとても助かる。それになんだか面白そうだし、なにより元気が出てきた。
「やりましょうか。どんなゲームですか?」
それを聞いた老人は馴染の店員に指示し、座敷席の座布団を片付けさせた。
「君は足押しってしってるかね?足押しですか?知りません」
「いやね、古くは土佐物語などに出てくる遊びなんだがね、これがまあ、面白いんだよ。もちろん、若くて体力がある君が有利だ。ただ、体力だけじゃない戦略性もある。ちょっとこっちに来なさい」
そう言うと老人は靴と靴下を脱ぎ、座敷席へ上がった。不思議に思いながらもこちらも靴と靴下を脱いで座敷に上がる。即座に店員が飛んできて、靴と靴下を靴箱に収納した。
「こういう体勢になってごらん」
老人は畳の上に座り込みを、足だけを浮かべて足裏をこちらに見せるような体勢をとった。
向かい合うようにして同じように座る。
「こうして足の裏を合わせるんだ。そして手を離す」
体全体でV字を作る体勢で老人と足を合わせる。やけに体温の低い感触が足の裏に伝わってきた。なかなか体力を使う体勢だ、もうこの時点で腹筋が悲鳴をあげている。
「そしてこの足の裏を押し合う。先に体勢を崩して手をついた方が負け。簡単だろ?それに若い君のほうが有利だ」
確かにそうだ。ただゲームにかこつけて奢りたいという話は嘘でなかったらしい。腰の位置を直し、安定しやすい位置に変え、ゲームに備えた。
「それじゃあ始めよう」
老人の足に少し力がこもったのを感じた。少しだけ強い力で押してみる。老人のバランスを崩させるのは簡単だが、怪我をさせてしまっては元も子もない。危なくない程度に力を込めた。
老人の足に伝わるはずだった力はすっとどこかに消えてしまった。どうやら老人は伝わってきた力を右側にいなしたようだ。二人の足が大きく右に揺れる。危ない、これではこちらまでバランスを崩してしまう。怪我を心配して弱めに力を入れたのがよかった。これが全力だったらそのままバランスを崩して倒れていた。
単に力がある方が有利というわけではないぞ、タイミングが重要だ。それには駆け引きが大切だ。そもそも、あまり力を入れていない相手に全力で力を入れても意味がない、そのままいなされるか、膝に吸収されてしまう。足を曲げればいいのだから、相手が力を込めてきたタイミングでこちらも力を込めなくてはいけない。思った以上に奥が深い。お互いに動けず、静止した状態が続く。
駆け引きだ。
相手の呼吸を読まなければいけない。酒場の喧騒の中から必死に呼吸を読もうと試みる。
「靴下が片方だけなくなるって話だけどな」
老人が切り出した。突き上げた両の足に邪魔されてその表情は伺えないが、少しだけ苦しそうなトーンだ。しびれをきらして動揺させようと話しかけてきたに違いない。
「はい、片方だけなくなることが特別に起こるんじゃない、片方だけなくなった時しか認識できない、ですよね」
受け答えしつつ、相手の呼吸を探る。こちらもこの体勢がきつくなってきた。
「ただな、おかしいとおもわねえか、なんで、片方だけなくなるんだってことよ」
「えっ?」
一瞬動揺した。そうだ、たしかにおかしい。靴下なんてのは大抵はセットで使うものだ。片方だけ使うことがあるならまだしも、大抵はセットで使う、つまり家の外に片方だけ持ち出すことはほとんどない。洗濯などの際になくなるとしても、そんな大それたところにいってしまうはずがない。
「そもそもな、片方なくなるって事態が特殊なんだよ、認識云々の話じゃない」
老人は動揺させようと突飛な話を持ち出しているのだろう。そうはいかない。
「じゃあ、なぜ片方だけなくなるんですか」
問いただす。老人はすぐに答えた。
「この世にはわけのわからねえフェチってやつがいる。例えば、男の靴下、それも好みの男の右足の靴下にしか興奮しねえ老人がいたとしたら。そしてその老人が部屋に忍び込んで盗んでいたとしたら。どうだい?なぜか右足にしか興奮しねえんだ、片方だけなくなるのも納得いくだろう」
心臓の鼓動が早くなる。完全に動揺している。
「そんな人いるんですか?」
なるべく感情が入らないように答えるが、少しだけ声が上ずってしまった。
「俺が勝った時の話をしてなかったな、アンタの右の靴下をくれや、もう部屋に忍び込むのは骨が折れるんでな」
ドクンと心臓が波打つのが分かった。それと同時に物凄い力が足に伝わってきた。波状攻撃と言わんばかりに変則的なリズムでぐいぐいと力が伝わってくる、老人が攻めてきている。闇雲に力をいなしたり加えたり、なんとかしのぐ。いつの間にか、老人は手をついていた。
「ははは、やっぱりかなわねえわ。冗談で動揺させて一気に攻めたんだがな。あんた強いな。はははは」
なるほど、さっきのは冗談だったのだ。とにかく、老人の攻撃をかわして勝てたのは大きい。いつの間にか落ち込んだ気持ちもなくなっていた。
「その笑顔だよ。あんたはいつも落ち込むとこの店にくるんだろう。だからこの店でしかあんたを見ない俺には、いつも落ち込んでるようにしかみえない。落ち込んでるパターンしか認識できないからな、片方の靴下と一緒さ。でもな、その事象だけ見てたってだめなんだ、嫌なこともあれば嬉しいこともある。片方の靴下がなくなる何倍もの頻度で両方の靴下が揃ってるんだ」
なんだか言いたいことも分かるような気がした。
「ありがとうございます」
そう言った。それは奢ってもらえるからじゃない。落ち込んでいた気分を浄化してもらえたような、そんな気持ちがしたからだ。
「じゃあ俺は先に帰るわ、代金は払っとくからな。今度この店で会う時は、今みたいな顔でな」
老人は早々に靴を履き、会計をして帰っていった。なんだかいいことがあった、落ち込むこともある。嫌なことだってある。けれども、それがことさら印象に残るだけで、実際にはそれと同じくらいか、それ以上に楽しいこと、嬉しいこと、楽しみなことがあるのだ。本質は、それに気づけるかどうかなのだ。良いも悪いも気づきしだい、それは片方の靴下と変わらないのだ。
店を出ようと、靴箱から靴を出す。片方の靴下がなくなっていた。
そして帰宅すると玄関に飾られた、風景画を収めた額縁は、少しだけ曲がっていた。
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