村上春樹を勧めてくる女子社員の話
職場の同僚がいよいよ臨界だ。
女子社員と男子社員の親睦を図るために飲み会をしましょう!と計画し、なぜか僕だけ誘わなかった女子社員が、最近とにかく発狂に近い動きを見せている。
なんども言わせて貰ってるが、別に飲み会に行きたいわけでもないし、女子社員と親睦を図りたいわけでもない。
なぜ僕だけ誘われないのか。
その一点だけがどうしても気になり、モヤモヤとした何かが溢れ出てしまうのだ。
これまた何度も言わせて貰うが、神様が突如現れて、全員を一列に並ばせて「君はBだね」「君はAだ、よくがんばった」「んー、君はCだよ、頑張らなきゃ」と言い出したとする。なんだろう、人生の充実度のランクかなって思って僕もせめてBはあるんじゃないかってドキドキしていたら「君はつじあやの」って言われるようなもんだ。なんで僕だけアルファベットじゃないのか、なんでつじあやのなのか、それと同じ思いだ。
最近の彼女はというと、どうやらイケメン目当てで朝の読書会というものに参加しているらしく、興奮気味にそこでのエピソードを職場で披露することが多くなった。ここのところはイケメンに勧められて読み始めた村上春樹にはまっているらしく、その内容に関する言及が多い。
「でね、すごいのよ。顔を洗うのに時間がかかるって表現をね、歯を取り外すとか書くの!」
完全に誰にも伝わらないセリフである。
顔を洗うのにすごく長い時間がかかる。歯を一本一本とりはずして磨いてるんじゃないかという気がするくらいだ。
たぶん、これのことだと思う。
僕自身は、村上春樹さんの表現のことはよく分からない。だいたい文末に「やれやれだ。」がつく冷ややかな文章というイメージしかなく、たぶんその認識は間違っている。けれども、彼女は夢中なようだった。
「こういう表現を愛するって素敵!ほんとに素敵な人なの!」
彼女はいつの間にか村上春樹が使った表現を、勧めてくれたイケメンが使ったかのように置換して興奮気味に語りだした。彼女の中ではもう完全にイケメンが村上春樹だ。それほどまでに心酔していた。
さて、2度目の職場の男子社員と女子社員の親睦の飲み会の時期がやってきた。前回は誘われなく、ひとりでつじあやのであったが、今回はなぜか誘われた。たぶん、一度目があまり参加者に好評ではなく、二度目の参加者がごそっと減ったのだと思う。だから人数合わせに誘われたのであろう。やれやれ、だ。
その親睦会はカラオケボックスで開催された。よくもまあ、ここまでひどいメンツを揃えたものだと感嘆の言葉を上げたくなるくらいのリアルなメンツがそこにあった。男性陣は何かしら嫌われているやつらばかりだったし、女性陣は秋元康が選んだブス選抜みたいなものだった。
盛り上がらないカラオケというものは、一番緩い刑事罰にしてもいいんじゃないかと思うほどに苦痛だ。懲役に罰金、その下に盛り上がらないカラオケが入ってもさして不思議ではない。沈黙だけが大部屋のボックスを包んだ。
隣の部屋から漏れ聞こえてくる若者たちとGReeeeNが妙に遠いものに聞こえた。「キセキ」なんてあるわけがない。その「キセキ」もあっけないほど簡単に終わり、しばしの完全なる沈黙が訪れた。
静けさは圧倒的だった。何か音がしてもそれはあっという間に痕跡ひとつ残さず静けさの中に吸い込まれてしまった。家の周りに何千人もの透明な沈黙男がいて、透明な無音掃除機でかたっぱしから音を吸い取っているような気がした。
アニオタで有名な男性社員が動いた。均衡を破り、リモコンを手にする。誰もが、マニアックなアニメの歌を歌われると覚悟した。○○ってアニメの二期の挿入歌でね、劇中では少ししか流れないけどサントラのボーナストラックで聴くといい曲でドュフフ、コポォ、とか意味の分からないことを言われることを覚悟した。けれども、いざ曲が始まると関ジャニ∞だった。全員がアニメじゃないんかよと心の中でつっこんだのは間違いないが、それもこの沈痛な葬儀を救うものではなかった。
一人、また一人と、スマホをもって部屋を出て行く。誰もがこの重苦しい雰囲気に耐えられなくなっていた。いつの間にか、僕とあの女子社員だけがボックス内に残された。
「孤独」という題でエドワード・ホッパーが絵に描きそうな光景だ。また沈黙である。まるで世界中の細かい雨が世界中の芝生に降っているようなそんな沈黙がつづいた。
また隣の部屋から、今度は恋するフォーチュンクッキーが聞こえてくる。なぜこんな状況に陥っているのか。そんなことをぼんやりと考えているうちに、この世界にもう一人の僕が存在していて、今頃どこかのバーで気持ち良くウィスキーを飲んでいるような気がしはじめた。
そして考えてば考えるほど、そちらの僕の方が現実の僕のように思えた。どこかのポイントがずれて、本物の僕は現実の僕ではなくなってしまったのだ。
僕は別のことを考えていた。魂だけを別の場所に飛ばし、早くカラオケが終わるのを祈った。肉体を離れるのはそれほど難しいことではない。そうすることによって僕はずっと楽になり、居心地の悪さを捨てさることができる。僕は雑草のはえた庭であり、飛ぶことのできない鳥の石像であり、水の涸れた井戸だった。
「歌いなよ」
突如、彼女が言った。スクリャービンのピアノ・ソナタに聴き入っている音楽評論家のような顔つきでじっと空間の一点を睨んでそう言った。
「う、うん」
リモコンで曲を入れる。つじあやの「風になる」である。僕は歌が下手だ。熱唱したつじあやのはボーイ・ジョージの唄と同じくらいひどかった。
「君も歌いなよ」
僕が勧めると彼女は静かな水面に木の葉が落ちた時のように表情が微かに揺れた。そして仕方がないと言いたげにリモコンを手に取った。彼女は歌に自信がある。勧められるのを待っていたのだ。やれやれ、だ。
曲が流れ始める。僕の知る限り、歌に自信のある女は必ずaikoとホイットニーヒューストンを歌う。彼女もまた、ホイットニーヒューストンに引き寄せられた女性の一人だった。
彼女は何かの悔しさをぶつけるように熱唱した。まるでこの空間に意識という架空の気体が充填されていて、それが音によって振動し、伝播しているかのように感じられた。
「エンダアアアアアアアアアアア」
サビの熱唱と共に、何かが弾けた。それはまるで、熟れに熟れたアケビの実が、誰の手を借りることもなく弾けるように、誰も聞くことのない小さな音が伴奏の合間に聞こえた。
そして、テーブルの上には、突然巣穴を掘り返されて諦めたモグラのように身を屈めた白い歯が3本、転がっていた。彼女の差し歯が3本、熱唱のあまり外れて横たわっていた。
「いわないでね、誰にもいわないでね」
彼女は口の中に不自然な黒い空間を抱えて懇願した。そのまま、まるでそろばんで金勘定でもするかのように指先で差し歯を拾い上げると、洗面所へと走っていった。
また一人残された。彼女は長い時間、帰ってこなかった。なるで歯を一本一本とりはずして磨いてるんじゃないかという気がするくらい、帰ってこなかった。「やれやれ」と僕は言った。
すでに登録済みの方は こちら